殺生石

殺生石(せっしょうせき)は、栃木県那須町那須湯本温泉付近にある溶岩。

鳥羽上皇が寵愛した伝説の女性、玉藻前白面金毛九尾の狐の化身)が正体をあらわし、数万の軍勢によって殺害され、石となったという逸話がある。その後、至徳2年(1385年)に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したという。

付近一帯には硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒ガスがたえず噴出しており、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られている。

現在は観光名所となっており、観光客も多く訪れる。ただし、ガスの排出量が多い場合は立ち入りが規制される。

玄翁によって砕かれた殺生石が飛来したと伝えられる地は多数存在しているが、一般に美作国高田(現岡山県真庭市勝山)、越後国高田(現新潟県上越市)、安芸国高田(現広島県安芸高田市)、または、豊後国高田(現大分県豊後高田市)と言われている。また、四国に飛来したものが犬神になり、上野国(現・群馬県)に飛来したものがオサキになったともいう。

岡山県真庭市勝山には、玄翁の開山による化生寺境内に、殺生石の石塚が存在している。また、これも玄翁の開山とされている、福島県白河市郷中寺、常在院境内にも、殺生石の破片と言われる石が祀られており、玄翁の座像と、殺生石の縁起を描いた絵巻「紙本著色源翁和尚行状縁起」が伝えられている。


玉藻前

玉藻前(たまものまえ、玉藻の前、玉藻御前と紹介されることもある)は平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた白面金毛九尾の狐が化けた伝説上の絶世の美女。鳥羽上皇院政を行った1129年から1156年の間に活躍したといわれ、20歳前後の若い女性(少女とも)でありながら、大変な博識と美貌の持ち主であり、天下一の美女とも、国一番の賢女とも謳われた。また、化生の前(けしょうのまえ)とも云われている。

最初は藻女(みずくめ)と呼ばれ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。18歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前(たまものまえ)と名乗る。その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなった。

しかしその後、上皇は次第に病に伏せるようになり、天皇家お抱えの医者にも原因が分からなかった。しかし陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)がその病が玉藻前による事が判明し、正体を暴露された玉藻前は、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を暗ましていた。

その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、8万余りの軍勢を那須野へと派遣した。(安部晴明が没したのが、 寛弘2年9月26日(1005年10月31日)、千葉常胤が生誕したのが元永元年5月24日(1118年6月14日)の為、この場合の軍師は安倍晴明の子孫では無いかと見受けられる。)

那須野で、既に白面金毛九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始する。

対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱ってい ると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。

だが九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたと言われている。南北朝時代会津・元現寺を開いた玄翁和尚が、殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる。

玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)である。

摂関家などの名門出身でもない彼女が皇后にまで成り上がって、自分の子や猶子を帝位につけるよう画策して、中宮待賢門院(藤原璋子)を失脚させ、崇徳上皇藤原忠実藤原頼長親子と対立して、保元の乱を引き起こし、更には武家政権樹立のきっかけを作った史実が下敷きになっているとも言われる(ただし、美福門院が実際にどの程度まで皇位継承に関与していたかについては諸説ある)。



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